コラム

2020.10 京はやましろ、川の町…もう一つの京都文化、戦国時代の幕を開けた嵐山城

嵐山 嵐山と言えば、渡月橋のかかる桂川とモンキーパークのある岩田山を思い浮かべる。山と川、そして点在する古刹や庭園、嵐山とその手前の嵯峨野一帯は京都からそれほど遠くはないが、適度な距離感の有る別天地として国内外の人々に昔から親しまれてきた。
 コロナ自粛が解禁された9月のお彼岸の4連休には、昨年同期の60%を超す人々が押し掛けたというが、桂川と渡月橋、そして背景の西山が醸し出す景観が人々を引き寄せるのだろう。渡月橋を中心とする桂川一帯が嵐山と言われているが、そこからすぐ見える山は岩田山、嵐山は実はその奥の標高382mの小高い山である。そしてその山上には、かつて嵐山城という響きの良い城が築城されていた。

 応仁の乱以降、信長や秀吉が登場する以前、衰亡しつつある足利将軍に代わって管領細川一族が実権を握り、さらに内紛から守護大名を巻き込んで洛中全体を戦火で被うような争乱の時代になっていた。嵐山城は、その頃半将軍とも評されていた細川政元(或は家臣の香西元長)によって1497年に築城されたが、戦国時代の他の城と同じく、天守閣も無い砦のような山城だったのだろう。下剋上の時代、政元は元長によって1507年暗殺され、その元長も戦いに敗れ、彼の悪政に虐げられていた西山衆(洛西の農民ら)の蜂起によって、わずか10年で廃城となった。その後政元の孫の細川晴元によって使われたこともあったが、嵐山城の命運は短く、まさしく戦国時代の幕開けを物語る儚い城であった。

嵐山 阪急嵐山駅から西へ5分、法輪寺(2018年9月に紹介)を経て、京都トレイル西山コースの案内板に沿って進み、途中城跡へと分岐して尾根づたいに山道を登ると、堀切や土塁の痕跡が見られ、やがてここに主郭が有ったのではと推察できる山頂部のやや平坦な尾根にたどり着く。今は石垣がわずかに残っているだけで、まさに『荒城の月』状態である
 詳しい案内板もないので想像を膨らませて山上から京都を見下ろすと、権力を巡る興亡の諸相が浮かび上り、サクラとモミジだけではない京都文化の素地が透けて見えるようだ。(M)

【2020年10月01日】

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